熊木九兵衛さんの「大変さ」が分かる        翦風号製作メモ(2005.5.1)         中島 伸男                                   ●私たちの復元作業 現在、「翦風号を甦らせる会」では、会員25名の共同作業で、往時の翦風号をより実 物に近い形で甦らせようと努力中である。モラーン・ソルニエ機の設計図(中川三治 郎氏所有)と写真に残る翦風号の姿などを参考に、会員の池戸善治さんが精密な設計 図を引いてくれた。 今年3月から、同じく会員である上柳与惣次さん(聖徳町)の作業場をお借りして、 手の空いた者が土曜日・日曜日ごとに「出勤」し作業を進めている。4月初旬の段階 では、サントリーから提供してもらった古樽の木材を利用し、両翼や胴体に使う骨格 材ができた。骨格材は、機体を支えるものであるから、強靱でなければならない。そ のため、古樽のオーク材(シラカシ)を切断し接着剤で張り合わせて集成材仕様につ くったのである。 つぎは、両翼のリブ30本である。材料はピーラ(上質のアメリカ檜)である。ピーラ は目が通っているので微妙な曲線の加工作業などがやりやすい。大量生産する訳でな いから、リブの一つ一つはすべて手作業になる。 難問はいろいろある。翼の曲線の出し方、エンジンの模型やプロペラの製作、両翼と 胴体のバランスなどなど。翦風号を甦らせる会に集まったメンバー一人一人が知恵を 出し合い、議論を重ねつつ進めることが何より大切で、また、そのことに意義がある。 市制施行記念日である8月15日までには、布張りは出来ていなくてもほぼ完成した状 態で展示したい。  ●九兵衛さんは、強度を重視した このような復元作業を進めながら、あらためて考えさせられるのは、第二翦風号を作 り上げた八日市町金屋の「油九」こと熊木九兵衛さんの苦労である。 荻田常三郎が墜落死し翦風号が炎上したのは、大正4年1月3日のことであった。 同年2月7日、知恩院で荻田常三郎の追悼法要が営まれたとき、九兵衛さんは遺族に同 機の復元を申し出た。 当時の新聞記事によると、大正4年4月1日に沖野飛行場で復元のための起工式を挙行 されている。意志表明から着手まで約2カ月。その間、九兵衛さんは、おそらく復元 構想や材料調達に没頭していたものと思われる。幸い翦風号の残骸が荻田常三郎の遺 族から九兵衛さんに引き渡されることになったので、設計図とともにこれも彼の製作 作業の参考になったにちがいない。 彼は機体製作のため各地から国産の木材を取り寄せた。主骨は北海道産のトネリコで ある。トネリコは、現在、野球のバットに使われている木材で固い上に衝撃に強いと いう。桁(リブ)は白樺である。目が詰まり強度がある素材だ。いずれも、現在では 手に入りにくい素材で、今回の設計者である池戸さんは「九兵衛さんは、やはり機体 の強度を重視していたものと思う」と話している。 大阪・島津工場に修理に出していたエンジンが完成したのは、7月中旬であった。す ぐに機体に取り付けられ、地上試験が行われた。 製作メンバーは熊木九兵衛さんを中心にして、亡くなった荻田常三郎の助手をつとめ ていた伊崎省三ら数名の青年であった。彼らは、九兵衛さんの自宅で寝泊まりしなが ら作業に従事していた。こういった翦風号復元経費は、当時の町予算にはいっさい計 上されていないので、すべては熊木九兵衛さんが支出したものであろう。 九兵衛さんが取り組んだのは実際に「飛ぶ飛行機」であった。当然、たいへんな緊張 と苦労がともなう。機体の強度・エンジン取り付け時のバランス・揚力・さらに離着 陸時の車輪のクッション性などなど。彼は、数々の課題をどのようにしてクリアした のであろうか。多くの試行錯誤があったにちがいないが、このような彼の製作上の苦 労話を伝える記録は見つかっていない。 九兵衛さんの第二翦風号は、着工から約4ヶ月で完成した。 ●短かった第二翦風号の寿命 しかし、せっかく出来上がった第二翦風号ではあったが「乗り手」が見つからなかっ た。無理もなかろう。素人集団が製作した飛行機にいのちを賭ける飛行家はそう簡単 には出てこなかったのである。 大正4年12月、アメリカの曲芸飛行家チャールス・ナイルスが来日し、翌5年1月に彼 は鳴尾競馬場で飛行会を開催した。このとき、九兵衛さんはわざわざ鳴尾に出掛けて ナイルスを訪ね、自らの造った第二翦風号の試乗を依頼した。ナイルスは、1月29日 に八日市にやってきた。そして、試乗の前に3時間かけ同機の点検を行った。問題の ないことが分かって、ナイルスは多くの観衆が見守るなかで、高度約100メートルで5 分間の飛行を実施した。当時の町議会議員であった清水元治郎は、このときの状況を 日記の中に、「万歳の声、喝采の響き、天地を震動せしむ」と記している。九兵衛さ んたちの苦労を皆が知っていただけに、それは当然のことであったろう。 ナイルスは、その後、幾度か第二翦風号での本格的な飛行を行い、「この機体は、と ても気に入った」とまで話している。そのナイルスはアメリカでの航空ショウの最中 に墜落死した。 第二翦風号の次の乗り手は、アメリカ人飛行家フランク・チャンピオンであった。彼 も九兵衛さんの要請により来町したのである。しかし、チャンピオンは大正6年10 月30日に高知で行われた飛行会でやはり墜落死した。原因は、高度1200メートルの上 空での左翼の折損事故である。錐もみ状態で地上に激突、チャンピオンはもちろん即 死し、機体も完全に破壊されてしまった。 翦風号の胴体と翼は、運搬に際していつも取り外すようになっていた。今回の私たち の復元製作に際しても、「翼と胴体の取り付け部分が難しい」と話し合っている。そ の「ポイント」の折損事故で第二翦風号は墜落したのである。完成から二年後のこと であった。 私たちの翦風号復元作業は、まだやっと緒についたばかりである。 だが、いままでは考えも及ばなかったところで、第二翦風号製作をやりとげた熊木九 兵衛さんのご苦労と執念とが少しずつ分かってくる思いである。そしてまた、あらた めて、翦風号・第二翦風号とともに当時の八日市がたどった「波瀾万丈」ともいうべ き歴史が思い出されてくるのである。